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  覚 悟  1

白井健三

私は学生時代クラブ活動に「体操競技」を選んだ。

今思えば「覚悟」というものをそのときに学んだように思う。
もともと体操をやりたかった訳ではなく、高校へ進学した当時は「新入生」として多くのクラブ勧誘を
受けたのがキッカケ。
身長がクラスでも低かったせいで、父親の影響もあり強く頑強な体を作りたいとただそれだけで「柔道」
をやろうと決め、自ら柔道部の道場に歩を進めていました。
ところが、当時の高校は柔道場に行くには体操部の練習している「体育館」を通らないと柔道場には
行けないようになっていたのです。

4月の初めに意を決して柔道場に向かったのだが、その体操部の部活風景に足が止まった。
見たこともない「平行棒」や「吊り輪」の演技に見とれていたんだろう・・・、近所の先輩に「体操やらないか
!?」、この言葉が私の人生の始まりだったように思う。
勿論、最初は断った。 しかし、先輩の熱意に押され3日間だけ試験的に体験という形でその練習に加
わった。
当時その年入部したのは3名。 私以外(2名)は中学の頃から体操をやっていたのですでに宙返りなど
お手のものだった。 私はマットで前転しただけで目が回るくらいだからその差は歴然としていたのは確
かだ。
練習を重ねれば重ねるほど格の違いを思い知らされ、私は当時気持ちはずたずただったと思う。

そんなとき、私にアドバイスしてくれたのが勧誘してくれた1年先輩だった遠藤さん。
「高校は中学と違い、中学に無い競技(吊り輪・平行棒・あん馬等)がある。 これらは体を作り、腹筋や
脚力・腕力等を作ることで他の同級生には2年になったら必ず追いつける」
私にはこの言葉(アドバイス)が全てだった。 同級生でありながらその2人はこいつと違うんだという優
越感のようなものを持っていたに違いない。  それだけでも放課後が嫌になるほど憂鬱だったことを
覚えている。
これが体操競技へのスタートだった。

15歳の1年生はただひたすら先輩の言葉を信じ、「耐久(からだづくり)」に専念した当時が懐かしく思い
出される。
前転や後転や側転、開脚前転・前方転回をやりながら、でも主な練習は腕立て・腹筋・倒立・その場跳び、
スポーツをやった者ならその苦しみは判るだろう・・・!!
駆け足で山を登る!? その他当然ランニング。
身長が低いというだけで体操に誘われた!? あながち間違いでもないが苦しい連続であったことには
違いない。

1年の春の男子全校マラソンは110番であったのが、2年の春は18番。 全校(男子)生徒700余名の
中だからそう考えたら驚くほど速くなった。  3年生になり10番を切った!!
同級生2名は300位にも満たなかったことを考えたらその差に言葉は要らない。
今でも覚えているが同級生2名の1人は当時家がお菓子屋さんだったことを覚えている。 彼ら(2名)は
3Kmも行ったところにあるお菓子屋に立ち寄りゆっくりお菓子やジュースを口にの一服を折り返しで見て
いた。
歯を食いしばって汗をかいている自分とは大きな違いだ。

ところが、2年生の3月(もうすぐ3年)、私は吊り輪からの着地に失敗し右手親指を骨折してしまった!?
90度に折れ曲がった指を見て気を失わんばかりの状況。 見たことない指の形でだ!!

手を着けない、器具を握れないんだから残す3年生の大会は絶望に近い。

考えもしない行動はそこから始まった。
というのは、デビューがそんなだったから「夢中」「わき目も振らず」が放課後の毎日だった。
体育館(体操場)に女子がどれだけいてどんな練習を・・・・など気にもとめていなかったのだ。
見学するしかない環境に追いやられた私は、まず体操着に着替え放課後は3年になっても1番速く練習場
にいた。 つまり見学するしかない訳だから。

そこで目にしたのが女子の練習風景だった。
当時、男子には我々3年が居たが女子に3年も2年生も居なかった。 それぞれ1名ずつ居たが1名では
当時試合にも出れなかったから練習に来なくなっていたというのが本当の話だろう。
体操部女子はその年(春)8名の入部があって賑やかだった。
つまりその練習風景に目が行ったのだ。

毎日毎日そこへ目が行った。   ・・・・というのは、1年生の女子に2名の悦材がいることに気がついた
からだ。  何に・・・と言うとその跳躍力に驚いていた!!
1週間も経ってからだっただろうか、先輩も指導者も居ない女子部員のところに歩を向けている自分が
そこに居たのだ。
見学を余儀なくされていた自分に迷いはなかった。 私のやることはこれだ!!
当時、女の子と一緒にいるだけで注視される時世だったから周りにしてみたらその目は興味本位と多くの
からかいの中に居ざるを得なかったが不思議と夢中だったせいか自身は気にならなかった。

教室(3年)では「スケベ」という言葉がまことしやかにささやかれていることを知った。
そりゃ3年の男がたった一人、正式な指導者でも無いのに1年生女子部員の中央にいるのだから今考え
ると同級生どころか、全校の男子にそうした目(スケベ)で見られていたに違いない。

その指導は8ケ月続いた。 11月の新人戦(1年・2年のみの大会)でなんと6名の団体で上位、2名につ
いては表彰状総なめ。
翌日月曜日に全校朝礼で校長先生から彼女等は再度前日の授与と練習の成果が話された。
その時から全校の男子の私に対する見方が一変した。 
古い体育館の3年間の締めくくりは新しく建てられた体育館での表彰で始まったのだ。

残りの3ケ月、私は新しい体育館(体操場)でもその1年生女子部員の中にいた。

今考えれば、それが「覚悟」だったんだろうと思う。

現在の内村や白井選手等とは環境も違い設備・機材も違い到底くらべものにならないが、それでも
今言えることは、「好きでなければ」ということだろう。 そして、楽しくなければ続かないし上達も観られ
ない。
つくづく思えることは、そこに指導者がいるか居ないかでも大きく違う。 先日来報道されている日大アメフト
部の指導者・監督は例えにならない。
厳しいことは特にスポーツや芸能事にあっては欠くことことの出来ないものだが、そこには楽しさという事
の伴走も無ければ決して続かないのだ。

全て夢であり、憧れから入ると言っていいだろろう。  しかし、好きだけでは決して国際試合になど出場
できないのだ。

苦しいことの連続はゴールに夢があるから耐えられる。 どんなに楽しくとも頂点になれる者は世界で一
人なのだ。 頂点に立った者、それすなわち名監督に非ず。 それは本当だ!

私は決して頂点に立った訳ではない。 しかし、やっていた当時はがむしゃらだった。
どうすれば上手くなるだろう!? どうすれば「技」が完成するだろう!?
勿論、練習しかないのだが、練習すれば誰でもできるというものでもない。

その子の血筋や生い立ち、友だち関係から性格。 そして、なによりやると決めたらの「覚悟」だ。
「覚悟」、口にすることはとても簡単だ。

一生懸命とか、初心に帰ってとか、口でならなんとでも言える。
しかし、苦しい耐久時間の中に身を置くことは実行力と継続なくして決して続かないのだ。

今でも当時の後輩(体操部男子)に会うと酒を酌み交わしながら、「先輩は女子の中に飛び込んで行った
んですよね・・・! 凄いな~ 」と言われる。
そうか、男子部員だったけど見ていたんだ私の行動を。

この経験(行動)は社会に出てからも、そして今尚変わらない現在の行動としてしっかり君臨している。

学校を卒業し、いろんな職業に就いた。 この経験と学生時代、後からお話しますが、子供の頃の私の
環境が今の自分を作ったのだと。

どこに行っても貢献できた! どこに行っても指導者的立場から常に経営陣の中に身を置けたのも人を
動かす術を心と体で学んだからだと確信をもって言えます。

輝くことが何であるか!?  身を粉にして体験実行し続けたからに他ならないと断言できますね。

(明日は「覚悟2」についてお話します)






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岡部俊雄

管理人 : 岡部俊雄
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